「独裁者が独裁者と呼んだ日」読売グループ“ドン“である“ナベツネ”の死去をヴェルディを巡りバトルを繰り返したJリーグ初代チェアマン川淵三郎氏が追悼
読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄さん(享年98)が、19日未明に都内の病院で肺炎のために亡くなった。創設直後のJリーグ運営を巡り、激しく対立した初代チェアマンの川淵三郎氏(88)が日本サッカー協会(JFA)を通して追悼メッセージを発表。クラブ呼称問題や1993年12月のヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)の東京都移転構想問題などで犬猿の仲とされた渡邉さんへ、川淵氏は「恐れ多くも不倶戴天の敵だと思っていた相手が、実は最も大切な存在でした」とのメッセージを送り故人を偲んだ。
数年前に著書の対談で和解
「ナベツネ」の愛称で知られ、日本サッカー界にも大きな影響を与えた渡邉さんの訃報が、読売新聞グループを通じて発表されてから数時間後。かつては犬猿の仲とされた川淵氏が、追悼メッセージを発表した。
相談役を務めているJFAを通して発表されたメッセージは、冒頭で「突然の訃報に言葉もありません」と綴られたうえでこう続けられた。
「ちょうど7年前、自伝を出す際に渡邉さんと対談する機会に恵まれました。高円宮殿下のご葬儀の際にお会いして以来で、久しぶりにお目にかかれて本当にうれしかった。既に90歳を越えておられるにもかかわらず矍鑠とされ、話される内容も鋭く、得難い時間を過ごさせていただきました。頭脳では到底かなわないものの、そのお姿を見て渡邉さんのように年を重ねていきたいと思いました。その渡邉さんが亡くなり、目標を失った思いです」(原文ママ、以下同じ)
川淵氏は2018年8月に『黙ってられるか』(新潮社刊)を発表。その巻末に収録された、渡邉さんとの特別対談を懐かしんだ。川淵氏のたっての希望で実現した初対談で、激しく意見をぶつけあってきた2人はお互いを認め合って和解している。
1993年5月に産声をあげたJリーグの運営を巡り、当時のスター軍団、ヴェルディ川崎の親会社だった読売新聞社の社長として、渡邉さんはさまざまな批判を舌鋒鋭く展開。川淵氏は対談のなかで「もういい加減にしてほしい。勘弁してくれ、という心境でした」と明かしたが、実は渡邉さんも異なる思いを抱いていた。
「実はあの論争では僕のほうこそ勝ち目はないと思っていました。僕はサッカーを見たこともやったこともない。(中略)そういうスポーツを知らない人間が、川淵さんみたいな人と喧嘩をするというのも滅茶ですよ。だからこそ勉強せざるをえなかった」
まず意見を異にしたのがクラブの呼称問題だった。
最大の理念として地域密着を掲げたJリーグは、クラブ名称を「地域名プラス愛称」で統一した。リーグが主導する動きに、当時の渡邉さんは後にオーナーを務めるプロ野球の読売巨人軍を引き合いに出しながら「野球人気は、企業サポーターがお金を出しているからだ」と持論を展開。産声をあげた1993年は、読売新聞やスポーツ報知、日本テレビが「ヴェルディ川崎」ではなく「読売ヴェルディ」と表記していた。
ホームタウンに関しても、当初は東京都を希望していた。しかし、当時の都内にはJリーグ基準を満たすスタジアムが国立競技場と駒沢陸上競技場の2つしかなく、前者はJリーグが「中立地」として扱ったために、後者は病院が近接している関係で騒音やナイター照明が望ましくないという理由で断念せざるをえなかった。
最終的には前身の日本リーグ時代から何度か使用していた、隣接する神奈川県川崎市をホームタウンに、等々力陸上競技場をホームスタジアムとして1993年のJリーグ元年を迎えた。しかし、カズ(三浦知良)やラモス瑠偉らを擁するスター軍団が、第2ステージのニコスステージ制覇を目前に控えた同年12月に大騒動が巻き起こる。
米軍調布基地跡地に新スタジアム構想が浮上し、調布市側がヴェルディと東京ガス(現FC東京)を誘致する活動を展開していた最中の12月3日に、渡邉さんが読売新聞社社長として東京都移転構想を半ば強引に発表した。
しかし、新スタジアム完成までの行程が不透明で、等々力陸上競技場の改修に着手していた川崎市が反発する状況を受けたJリーグが、地域密着の基本理念を全面的に否定するものとして拒絶。JFA理事会もヴェルディの移転計画の撤回を要望したなかで、各クラブの社長らで構成されるJリーグ実行委員会が同14日に東京移転構想の白紙撤回を勧告。ヴェルディ側も了承し、移転構想はいったん立ち消えとなった。
こうした経緯が引き金となったのか。ヴェルディがリーグ戦連覇を達成した1994年12月。都内のホテルで開催された祝賀会で、乾杯のあいさつに立った渡邉さんが、さまざまな形で意見を対立させてきた川淵氏を、皮肉を込めて「独裁者」と呼んだ。
「企業サポーターがスポーツを育てる。一人の独裁者が空疎で抽象的な理念を掲げるだけではスポーツは育たない」
祝賀会を欠席していた川淵氏が「独裁者に独裁者と呼ばれて光栄です」と返すなど、真っ向から対立する構図は、その後もメディアを何度もにぎわせた。そのなかで群を抜く発言力を誇る渡邉さんとの、メディアを介した論争がもたらした絶大なプラス効果があったと、川淵氏は追悼メッセージのなかで綴っている。
「Jリーグ開幕当時、クラブの呼称問題などで侃々諤々の論戦を繰り広げたことが懐かしく思い出されます。渡邉さんとの論争が世間の耳目を集め、多くの人々にJリーグの理念を知らしめることになりました。恐れ多くも不倶戴天の敵だと思っていた相手が、実は最も大切な存在だったのです。まさに渡邉さんはJリーグの恩人。心から感謝しています。在りし日のお姿を偲び、ここに謹んで哀悼の意を表します」
読売新聞社は1998年11月にヴェルディの経営から撤退した。渡邉さんはリリースのなかで、日本リーグの読売クラブ時代から支えてきたヴェルディからの撤退を、当時のJリーグに所属していた18クラブに共通する経営状態を踏まえてこう語っている。
「所属する18チームの全てが莫大な赤字に苦しんでいる状態です。(中略)これは川淵チェアマンの誤ったリーグ運営の結果であります」
ヴェルディは一方で、2001シーズンにホームタウンを東京都へ移転。開業した東京スタジアムをホームスタジアムとして、東京ヴェルディとして戦いをスタートさせた。移転が承認された背景には、川淵チェアマンが「観客数が増えるのならば、移転はむしろ歓迎すべきこと」と柔軟な姿勢に転じた点も見逃せない要素になっている。
そして、2009シーズンからは長くJ2で戦い、その間には日本テレビまでもが経営から撤退したヴェルディは、16年ぶりにJ1の舞台へ戻ってきた今シーズンは6位と躍進。さらに平均観客数2万976人と20チーム中で11位と奮闘した。
今月8日のJ1リーグ最終節からほどなくして死去した渡邉さんは、先述した川淵氏との対談のなかでこんな言葉も残している。
「あの頃川淵さんは、Jリーグは地域単位のスポーツ振興を想定していて、いろいろな理想を提唱していた。一方で当時の僕は、企業単位のスポーツしか考えられない面があったのでしょう」
お互いが信じる道を貫いたからこそ、一時は犬猿の仲と表現された。地域密着理念をある意味で認めた渡邉さんの言葉は、日本トップリーグ連携機構会長として、88歳の米寿を迎えたいまもさまざまな発信を続ける川淵氏の記憶に鮮明に焼きついている。
(文責・藤江直人/スポーツライター)