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パフォーマンスで人気を博した日ハムの杉谷拳士が「前進会見」を開き電撃引退を発表した(写真・黒田史夫)
パフォーマンスで人気を博した日ハムの杉谷拳士が「前進会見」を開き電撃引退を発表した(写真・黒田史夫)

電撃引退を発表した日ハム杉谷拳士の“エンターテイメント野球人生”を支えた甲子園の帝京vs智弁和歌山“痛恨の1球”とは?

 日本ハムの杉谷拳士内野手(31)が28日に北海道・札幌市内の球団事務所で緊急会見に臨み、今シーズン限りでの現役引退を表明した。外野も守れるユーティリティープレーヤーとして活躍した14年間。そのムードメーカーとしての明るいキャラがファンの支持を集めた。その原点は、たった1球で敗戦投手になった帝京高校の1年夏の甲子園。新鮮な爪跡を日ハムに残した杉谷は、プロ野球界やチームへの恩返しを含めた“第2の人生”を満開の笑顔とともに歩んでいく。

あの夏の甲子園…1球で敗戦投手

セピア色になりかけていた記憶が蘇ってくる。
 日ハムOBの斎藤佑樹氏が早稲田実業のエースとして夏の甲子園を制し、「ハンカチ王子」として一世を風靡した2006年の夏。
 ベスト8で敗退していた帝京の前田三夫監督(当時)を、東京・板橋区のキャンパスに訪ねたことがあった。
 帝京と智弁和歌山との準々決勝。4点のビハインドで迎えた9回表に大量8点を奪って逆転するも、その裏に5点を奪われ、12-13のサヨナラ劇で終わったという高校野球史に残る“死闘”の真実をもう一度、掘り起こすというスポーツ雑誌の企画だった。取材対象は、両校の監督と、その試合の責任投手となった両校の2投手。前田監督にお願いして、当時、まだ15歳で1年生だった杉谷を学校の応接室に呼んでもらった。
「何でも大会記録らしいですね。勝利投手と敗戦投手とが、ともに1球ずつなのは」
 練習開始前の真新しいユニフォーム姿で応接室に入ってきた杉谷の、その第一声をいまでも鮮明に覚えている。
 1点差に追い上げられた9回裏無死一塁の場面で、杉谷は、それまで守っていたショートから急きょ救援登板を命じられた。
「来た! ここで抑えたらヒーローだ」と心のなかで叫んでいたという。
 だが、初球で死球を与えて降板。その走者がサヨナラのホームを踏み、結果として杉谷は敗戦投手となる。そして9回二死無走者で登板した智弁和歌山の2番手、松本利樹が1球で後続を打ち取り、結果として勝利投手になった。敗戦投手と勝利投手が共に1球だけという珍しい記録だ。
「でも、ピッチャーとしては(今回の夏の甲子園を)集大成にします。敗戦投手になって悔しいですけれども、もう二度とピッチャーはやりません。僕は日本一のショートストップになるために帝京高校にきました。あと4回チャンスがあるから最低でも2回は全国制覇して、プロ野球選手になって父にボクシングジムを建ててあげたいと思っています」
 当時の取材ノートには杉谷のこんなコメントを残っていた。
 前田監督は、杉谷をマウンドに送った理由を9回表の攻撃で投手に代打を送り、後を任せられる投手が不在だったと明かしている。
「ならば、あの場面では強気な選手がいい。杉谷は楽天家で、しかも強気。お父さんの戦いぶりを引き継いでいる面もありましたからね」
 東京・大泉西中学時代にピッチャーを務めた経験がある杉谷に一縷の望みを託した。
 しかし、甲子園のマウンドは文字通りの別世界だった。
 父親は、右肩を脱臼しながらKO勝ちを収めた伝説を持つ、ボクシングの元日本フェザー級王者の満さん。次男の杉谷は、すっぽ抜けて死球になった、その1球をこう振り返ってくれた。
「観客のみなさん全員が僕を見ながら、ざわざわしているような気がして、マウンドに上がっちゃいけないような気がしてしまって。初球のサインもカーブかスライダーかよくわからないまま、いつもと違う感覚で投げたらすっぽ抜けてしまいました」
 度胸がある杉谷といえど緊張していたのだ。

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