なぜ村田諒太の”魂の戦い”は”最強”ゴロフキンに9回TKO負けしながらも人々の感動を呼んだのか…現役引退を決断
村田は「ああ、負けたんだという事実を受け入れ初めて感情がわいてくる」という表現で心境を語ったが、ゴロフキンと拳を交えて感じたことは「強さ」ではなく「上手さ」だったという。 「総合力でやられた。一発のパンチ、スタミナ、そういう数値ではなく技術的なところで負けた」 村田は心の話をした。 「36の年になって、まだ続けていて、ボクシングで何かを証明したい、何かを得たいと、いろいろなことを考えていく中で自分の強さを証明したかった。強さとは何か。中学校の時はすぐに逃げ出す弱い自分がいた。高校生の時の全日本選手権決勝でびびって試合にならなかった。北京五輪も勝負できないまま終わったふがいない自分がいて、そういったものを乗り越えて、自分の内面を律して、自分自身を乗り越えたいと思ってやってきた。その満足感でモチベーションが下がるのを防げた。メンタルはしっかりとできた」
エプロンに上がり、「体は大丈夫か?」と、第一声で村田の身体を心配した本田会長は「100%の力を出したと思う。右フック、アッパーの対策もちゃんとできていた。最高の姿を見せてくれた。それよりもゴロフキンが上だったということ。感謝しかない。凄い男ですよ。私も彼も2年半大変だった、村田は毎日練習してきたわけだから」と村田の戦いを称賛した。
1ラウンドが終わるとコーナーに帰った村田がニコっと笑った。ホテルから会場に移動する際、「楽しんでこい」と本田会長に見送られたという。 「そうだよなと」 村田の持論は「ボクシングの試合を楽しんだことなんか一度もない」というものだった。 田中トレーナーから、元6階級制覇王者、オスカー・デラホーヤも「楽しい」という感情を抱いてリングに上がったことが一度もないと言う話を聞き、共感を得て納得していた。 だが、この日は、違ったという。 「楽しくなかったですけどね。でも楽しいこともあった。ゴロフキンと打ち合えて、効いているとか。どこまでやってもボクシングファンなのかもしれない。一流選手とやっている嬉しさがもしかしたらあったかもしれない。プロになって全然楽しくなくて、勝たないといけないし、金メダリストのプレッシャーがあった…」 ここまで語って村田は涙ぐんだ。
2年半にわたる新型コロナとの戦いがあった。その間、流れた試合は、実に8度。昨年5月にTシャツまで作って準備していた無敗のWBAの上位ランカーとの試合が流れたときには、張り詰めたものがプツンと切れた。 「今すぐ引退しますよ」 村田からの連絡に驚いた。 このまま試合をせずにグローブを吊るすのか?と問うと、「2年も試合をしないまま、あのゴロフキンと戦うことは怖いんです」と村田は本音を吐露した。階級は違うが、WBA世界バンタム級スーパー、IBF世界同級王者の井上尚弥(大橋)は、海外で試合をコンスタントに消化していた。 「人と比較してはダメなんですが…」 モンスターが羨ましくも思えた。 だが、次の日も村田は練習を休まなかった。 自己と向き合う日々が続く。メンタルトレーナーの田中ウルヴェ京さんと定期的なセッションを持つようになったのが、この頃だった。ひとつの言葉を投げかけられた。 「自己肯定とはありのままの自分を見ること」 村田は結論を導く。努力への過程こそ自己肯定できるものではないのか。 ゴロフキンという偉大なボクサーは、その内なる戦いと努力に値すべき存在だった。
だが、細い心の糸をつなぎ止めた村田を最後の試練が襲う。昨年12月29日に予定されていたゴロフキン戦が、政府のオミクロン株対策による新規外国人の入国禁止で延期となったのである。このときの村田の落ち込み様といったらなかった。ただならぬ気配を察知した、南京都高(現・京都廣学館高)ボクシング部の先輩で後援会の会長でもある近藤太郎氏が音頭をとり気の置けない仲間を集めて村田を激励した。 「僕だって心は折れますよ」 村田は、その心境を双六の人生ゲームに例えたという。 「やっと蜃気楼みたいな上がりのゴールが見えた。あと5コマ。サイコロをふったら4が出ました。するとそこに書かれていたのは100マス戻る。そんな気分ですわ」 村田の心の揺れは想像を絶するものだった。