井上尚弥が「兄弟同時世界王者」を願う弟・拓真の現在地
予想通りに古橋は、1ラウンドから前に出てきたが、拓真は冷静に対処した。ステップを踏み、距離をずらしながらブロックも使ってほとんどのパンチを外した。そこに左フックのカウンターをヒットさせると、今度は、前に出て距離を潰してアッパーカットをお見舞いした。3ラウンドには右のアッパーのトリプル。なかなか見られない戦慄が走るような連打だった。
試合後、古橋陣営の笠トレーナーが対拓真の作戦を明かした。
「左ジャブのリードで攻めるつもりだった。でも簡単に中に入れたので、プレスをかけて、今度は打ち合いに持ち込みたかった。拓真選手は短気なところがあるのでね」
だが、拓真が作った距離が、その作戦を空回りさせた。前には出たが、先に手を出してパンチを当てたのは、拓真の方だった。いくらロープに詰めても拓真は無茶な殴り合いには応じず冷静さを保っていた。
古橋は「一回ボディが効いたくらいでダメージは正直なかった」とした上で、こう拓真を称えた。 「打ち合いに乗ってこなかった。左から崩したかったが、その左を当てさせない動きがあり、打とうとしたら懐に入られて距離を潰された。井上選手が上回っていた。完敗です」
新田会長も「対策を練ってきたが、それ以上に拓真選手のスピードも技術も素晴らしかった。サイドにずれたり、接近戦で頭の位置を変えたかったが、それをさせない技術が拓真選手にあった」と脱帽した。
拓真は、ウバーリに負けてから、2021年1月に再起、いきなりOPBF東洋太平洋バンタム級王者の栗原慶太(一力)に挑み、強打の王者をコントロールして9ラウンド負傷判定で勝利した。栗原は、その後、東洋王者に返り咲いている。
去年11月には、バンタム級で国内に対戦相手がみつからず「力負けせずパワーをつけること」をテーマに階級を一つ上げ、世界挑戦経験もある元OPBF東洋太平洋スーパーバンタム級、元日本同級王者の和気慎吾(FLARE山上)とWBOアジアパシフィック同級王座決定戦で対戦した。4回にダウンを奪うなど圧倒して判定で連勝。確実に成長、進化を遂げてきた。
ただ欲を言えば、古橋戦も含めフィニッシュに持ち込めない詰めの甘さがある。
古橋を惑わせた距離とポジショニングは素晴らしかったが、下がって打つパンチは、やはり威力が半減する。スパーリングでは、実力者を眼窩底骨折に追い込むなど、本来は、井上家のDNAに刻まれているパンチ力はあるのだ。無謀な打ち合いは厳禁だが、そのパンチ力の使い方には、もうひと工夫いる。 「そこが課題。押し勝つ、打ち勝つ技術も取り入れていかなきゃと感じている」
拓真も課題を理解している。
悔しい思いをして取り逃がした世界が再び視界に入ってきた。しかし狙う階級は兄が4団体統一に王手をかけているバンタム級だ。
「世界となると体の大きさ的にも、減量をやっていてもバンタムが適正かと思う。父もそう思っている」
狙いたいのだが、狙えないというジレンマがあるが、兄の尚弥は、年末にも国内でWBO世界同級王者のポール・バトラー(英国)と4団体統一戦を実現できる方向で進んでおり、その後は、スーパーバンタム級へ転向する。そうなった時点で4つのベルトはすべて返上して空位となる。つまり拓真には、バンタムのどのベルトでも狙えるチャンスが出てくる。
「チャンスが来たときに一発で取りたい。ここで焦っても仕方がない。ここはひとつ踏ん張りどころとしていろんな経験を得て、世界戦が決まれば)一発で取れるように今は成長の時期と思っている」
マッチメークをする大橋会長も、バンタム級のベルトの先を見据えた上で「来年には拓真を世界挑戦させたい」と断言した。
そして尚弥も、拓真との兄弟王者実現を心から願っている。
「兄弟同時の世界王者もあるけど、まずは拓真の目標がある」
拓真は古橋戦で緑色を基調としたガウンを着てリングインした。そこには、WBCの緑のベルトに重ね合わせた思いがある。ドネアは、拓真が敗れたウバーリをボディショットで倒してWBC王座に返り咲き、兄・尚弥への再戦切符をもぎ取ったのだ。
「あそこ(ウバーリ)で勝っていたら、あの(ドネアの)ベルトもオレが持っていたのかなという気持ちを頭の片隅に思いながらね。またそこを目指して頑張りたい」
アウトボクシングもインファイトもできる。カウンターを狙うボクシングに加え、強弱もつけられるようになり、試合中の対応力もアップした。古橋戦では、アッパーカットという新しい武器も手にした。世界へ再挑戦する資格は得た。そこが拓真の現在地。
「倒す」という詰めの部分に、兄・尚弥が持つインパクトが少しでもプラスされれば、兄弟世界王者達成の可能性は一気に高まるだろう。
(文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)