恩師が語る引退発表した中日・福留孝介の知られざる逸話…ドラフト1位指名された近鉄入団拒否と阪神入団の真相
中日の福留孝介(45)が8日、今季限りの引退を発表、バンテリンドーム内で引退会見を開き、Youtubeで生配信された。1995年のドラフトで近鉄の1位指名を拒否したときの近鉄監督で、のちに中日打撃コーチとしてコンビを組み、22年間、親交を続けてきた現在大和高田クラブ監督の“恩師”佐々木恭介氏(72)に知られざるエピソードを聞いた。
もし近鉄に入団していたら日米3000本安打も可能だった?!
爽やかな顔をしていた。
ユニホーム姿で引退会見に臨んだ福留は、引退理由を「気持ちの面が一番大きい」と語り、「さみしさもありますけど、誰しもが通る道。いずれ自分にもこの時が来るのは分かっていたこと」と、現役生活に別れを告げた心境を口にした。
22年の付き合いになる元近鉄監督、元中日打撃コーチの“恩師”佐々木氏が引退の報告を聞いたのは、ちょうど1週間ほど前だ。
会見で福留は「お世話になった方々。誰が真っ先にというか思いつく方にすべて連絡した」と語ったが、その1人が佐々木氏だった。
大和高田クラブで監督を務める佐々木は8月29日に全日本クラブ野球選手権大会で3大会ぶりに優勝。その報告を福留にした際には、引退の話はしていなかったが、その3、4日後に折り返しがあり、引退の決断を聞かされたという。
「一番聞きたくない報告やな」
佐々木氏は、そう返した。
佐々木氏は「イチローを超えろ!50歳までプレーしろ」とずっと言い続けていた。それだけの技術があると信じていた。福留はイチローの引退と同じく45歳。
「出番が減ってきて結果も出ない。つらいやろうなと見ていた。ふくらはぎを痛めていたそうだが、どこかでもう1回、1軍に上げてくれるやろうと待っていた」
数日、涙が止まらなかったという。
この日の引退会見は、Youtubeのページを検索しているうちに終わっていた。だが、妻に「爽やかな会見だった」と聞かされ、どこかほっとしたという。
2人は不思議な運命で結ばれている。
1995年に近鉄の監督に就任した佐々木氏の最初の仕事がドラフト会議だった。PL学園のある富田林に住まいを構える佐々木氏は「凄いバッターが出てきた」と福留が1年生の頃から注目していた。
だが、スカウト会議では、故・河西チーフスカウトが「福留はパ・リーグには来ません」と報告。指名回避を求めた。だが、佐々木氏は、そこで一席ぶった。
「ちょっと待って下さい。近鉄沿線の富田林にいる最も欲しい選手を避けて通ることができますか?ましてや監督として一発目の仕事です。どんなことがあっても指名します」
1位での競合が予想されており、佐々木氏は、願をかけて「紅白のふんどし」を締めてドラフト会場に入った。相思相愛が噂されていた中日、巨人に加え、ヤクルト、日ハム、ロッテ、オリックス、そして近鉄の7球団が入札した。運命のクジ引きで、佐々木氏は、当たりくじを引き当て「よっしゃー!」と雄叫びをあげた。4位指名までが終わると、その足で大阪へ帰りPL学園の寮に挨拶にいった。佐々木氏は、結局、計3度、交渉の席に同席して熱弁をふるったが、「孝介は決して目をそらすことなく話を聞き、終始、笑っていた。一枚上手だったんだろうけど、当時は来てくれるという手応えはあったんだ」という。
だが、しびれをきらした当時の球団幹部が、野球協約違反の“密約“を持ち出したことで話がこじれる。とりあえず近鉄に入団して3年プレーしてくれれば、その後、希望球団にトレードに出すという違法プラン。
「この話をしていいか?」と、当時の幹部に言われた佐々木氏は、「それが球団の方針なら孝介に伝えるのは構いませんが、絶対に報道陣に言ってはダメですよ。野球協約違反ですから」と返したが、交渉後の会見で、その幹部はそれをポロっと漏らし、のちにコミッショナーからクレームが入るなどの大騒動となった。
「密約」の看板を背負って福留が近鉄に入団できるわけがない。佐々木氏は、その年の球団の仕事納めの時に報道陣に自ら「交渉終結宣言」を出した。
「今考えると中日への憧れがあったんだろうね。故郷は鹿児島で串間キャンプに行って立浪や山崎武司のサインをもらっているんだから。でも、今でも孝介と笑い話をするときがある。“恭介さんと、もし近鉄で3年間やっていたら3000本安打行ってましたね”と。確かに1年目に100本、2年目、3年目に150本は打っていた。でも近鉄に入っていたら、その後どうなったか。運命は不思議なものよね」
日米通算2450安打。社会人の日本生命に進んだ3年間、近鉄でプレーしていれば日米通算3000本安打も可能だったのかもしれない。