西武の内海哲也が涙の引退会見…「昔の絶対に抑えられる自信がなくなった」”門下生”渡辺勇太朗からサプライズの手紙も
今季限りでの引退を表明していた西武の内海哲也(40)が19日、埼玉県所沢市の球団事務所で引退会見を行った。内海は敦賀気比高を卒業する2000年にオリックスにドラフト1位で指名されたが巨人への憧れがあり入団拒否。東京ガスに進み3年後に自由獲得枠で巨人へ入団。3年目から頭角を現し、2007年に奪三振王、左腕エースとして2011年には18勝で最多賞、翌年に続けて最多勝を獲得しリーグ優勝の貢献した。2018年オフに西武から巨人にFAで移籍した炭谷銀二朗の人的補償で西武へ移籍。プロ19年で通算135勝をマークした。会見では西武への感謝の思いやプロで貫いたこだわりなどを語り、今季はコーチを兼任していたこともあり、最後に“門下生“の渡辺勇太朗(21)が泣きながら手紙を朗読するサプライズもあった。内海は、この日、ベルーナドームでの楽天戦で先発としてラスト登板し、試合後に引退セレモニーが行われる。 以下は引退会見での主な一問一答。
「僕がいれば若い選手の足枷となる」
――今の心境は?
「ついにこの時がきたかという感じです」 ――いつどんなタイミングで引退を決意したのか? 「今シーズンが始まってから、ずっとどこかで辞めないといけないという気持ちがあった。それでも1軍に呼んでもらったり、ファームで調子が良かったりする状況があって迷ったが、コーチ兼任で1年やらせてもらって、若い選手が伸びてきて、1軍の舞台で活躍するところを見たい、僕がいれば足枷になって邪魔をしかねない(と思い)、今年が引き際としては一番いいと思って決断した」
――引退決断の理由は?
「ここ数年、1軍の登板機会が少なくなっていた。昔みたいに絶対抑えられるという自信が少しずつなくなってきた。そういう気持ちで1軍のマウンドに立っても、自分自身“違うな“と思い決断した」
――最初に誰に報告を?
「家族です。うすうすは、家族も気づいていたみたいで(引退を)言った時には泣いていましたが、すぐに受け入れてくれて“お疲れさま“と言っていただいた。家族がいないとここまでやれなかった。支えであり活力であり、僕のすべて」
――プロ19年で135勝。
「200勝を目指していたので正直、もっと勝ちたい、全然足りないなと思っていた。でも、よくやったなあと思っている」
――今思い出すことは?
「ジャイアンツ時代のことをよく思い出す。優勝したり、最多勝をとれたり、叱咤されたり、いろんな思い出がある。ライオンズでは成績を残せなかったが、受け入れていただき、ライオンズの一員になれたことが凄く思い出に残っている」
――巨人時代を振り返ると。
「堀内監督にどうしようもないピッチングをしても1軍で使っていただいたおかげで1軍で活躍する土台を作っていただいた。原監督には、エースの使い方というか、大事な場面を任せていただいた。最後(巨人監督の高橋)由伸さんの時と、(西武の)辻監督の時は、なかなか思うようなパフォーマンスを出せず、悔しい思いしかないが、感謝しています」
――ベストピッチは?
「始めに出てくるのは、長嶋(茂雄)さんと松井(秀喜)さんの国民栄誉賞の授与式の東京ドームでの登板。絶対に負けてはいけない試合だったので緊張したことを覚えている」 (2013年5月5日の広島戦で内海は8回無失点で1-0勝利)
――最多賞(2011年)を最初に獲得した際の涙も記憶にある。
「入団した時は、150キロの真っ直ぐを投げられるわけでも(ソフトバンクの)千賀投手のようなフォークがあるわけでもない。普通のピッチャーだったと思うが、いろんな方に教えてもらいながら、ちょっとずつ力をつけて実った結果の最多勝。あの時は感無量。17勝、18勝はサヨナラ勝ちで、野手の方に打ってもらい、支えてもらった勝利だと思って本当にうれしかった」 ――印象的なバッターは?
「僕が第1線でやっている時は中日ドラゴンズが強い時期で、ほとんどの(中日の)バッター苦手としていたが、とくに和田(一浩)さん、谷繁(元信)さんとか、吉見(一起き)投手とか、今思うと懐かしいが、当時は本当に嫌だった(笑)。いい場面で打たれた」