西武の松井稼頭央新監督はライオンズを再建できるのか…東尾&辻&高津の3監督から学んだ流儀を生かす
西武から2004年にMLBのメッツへ移籍するまでの10年間で、盗塁王を3度、最多安打を2度獲得。2002年には打率.332、36本塁打、33盗塁でNPB史上8人目、スイッチヒッターとしては初めてトリプルスリーを達成した経験を持つ松井新監督は、目指していく野球を「躍動感のある走攻守」に設定。その上でこんな青写真を披露している。
「山川という軸がいるなかで積極的に足を使いながら、どのようにして1点を取っていくか。まずはしっかりと走ろう、をテーマにスタートしていくなかで作り上げていくものが、あるいは見えてくるものがあると思っています。1-0でもいいし、8-7でもいい。この1点を勝ち切る、取り切る、あるいは守り切るのが本当に強いチームだと思っています」
フェニックスリーグを戦っている若手を含めた、すべての選手をキーマンにあげた。
「全員が戦力ですし、選手たちが目の色を変えるなかで、僕に『こいつを使いたい』と思わせるような選手が一人でも多く出てくるのを心待ちにしています」
現役時代の松井氏こそが、指揮官に「使いたい」と思わせた若手だった。
1993年のドラフト3位でPL学園高から入団した松井氏は、ルーキーイヤーを一軍での出場機会ゼロで終えている。2年目の1995年に就任した東尾修監督の姿も、いまも鮮明に覚えている。
「僕がノックを受けていると、捕るところまでは見ているんですよ。でも、投げるときには見ていないんですよね。(守備が)使いものにならなかったから」
同じショートを守っていた守備の名手、奈良原浩のフィールディングを微に入り細をうがちながら観察しては自分のものにした。もともとは右打ちだったが、当時の打撃コーチの助言を受け入れてスイッチヒッターへ転向。本名の「和夫」を「中央で先頭に立って活躍する」という思いを込めて、いま現在の登録名である「稼頭央」に変えたのもこの頃だった。
少しずつながらチャンスをつかんだ1995年をへて、1996年からは8シーズン連続で全試合出場を果たした。高校時代は中村順司氏、楽天では星野仙一氏(故人)と名将のもとでプレーした松井新監督は、東尾監督との出会いをいまでも感謝している。
「東尾監督に出会っていなければ、いまの自分はないと思っています。スイッチヒッターになったときも、いろいろなコーチからの意見もあったと思いますけど、誰よりも東尾監督が僕を、と思っていただいた。僕も『何とかこの監督のために』という一心でプレーしていましたし、自分も監督としてそういう強い信念を持ってやっていきたいと思っています」
秘めている才能を、いまにも解き放とうとしている若手を絶対に見逃さない。自分を見出してくれた東尾氏への感謝の思いを、一軍監督を担っていく上での方針のひとつに変えた。