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今年3月の勇姿…元日本代表FW工藤壮人さんが水頭症で亡くなった。32歳。あまりにも早すぎる生涯にサッカー界に悲しみが広がった(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
今年3月の勇姿…元日本代表FW工藤壮人さんが水頭症で亡くなった。32歳。あまりにも早すぎる生涯にサッカー界に悲しみが広がった(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

32歳で旅立った工藤壮人さんを偲ぶ…背番号「9」に込めたプロの矜持…「明日は共に戦おう」

 サッカーの元日本代表FW工藤壮人さんが21日午後2時50分に死去した。所属するJ3のテゲバジャーロ宮崎が同日に発表した。享年32。工藤さんは今月2日に体調不良を訴え、3日に水頭症と診断されて入院。11日に手術を受けたが容体が悪化し、17日から集中治療室(ICU)で治療を受けていた。柏レイソルやサンフレッチェ広島などをへて、今シーズンから宮崎でプレーしていた工藤さんとのあまりに早すぎる別れに、サッカー界は大きな衝撃を受けている。

11日に水頭症の手術も容体が悪化し17日から集中治療室へ

 矜恃を抱き続けた「9番」を背負ったまま、工藤さんは32年間の短すぎる生涯を閉じた。
 工藤さんの訃報は21日深夜に、今シーズンから所属するJ3宮崎の公式ホームページ上で発表された。2日の練習時間外に体調不良を訴えた工藤さんは翌3日、脳室に過剰な脳脊髄液が溜まって脳を圧迫し、さまざまな障害を引き起こす水頭症と診断されて入院していた。
 11日には手術を受けるも容体が悪化。17日から集中治療室(ICU)で治療を受けていると、宮崎が18日に発表したばかりだった。宮崎の二村恵太代表取締役社長は、公式ホームページ上で「私たちの大切な仲間である工藤壮人が息を引き取りました」と工藤さんの死去を報告。クラブに届いた励ましのメッセージに感謝しながら、こんな言葉を綴っている。
「工藤選手はJ1で活躍し、日本代表にも選ばれるなど、非常に実績がある選手です。それにも関わらず、驕りなどは一切なく、自分のことだけでなくチームメート、クラブ、そしてサポーターのことを大切にする素晴らしい姿勢の持ち主でした。クラブスローガン『真摯』をまさに体現してくれる存在でした。そのような選手のあまりにも早い逝去は、無念で残念でなりません」
 東京都足立区で生まれ育った工藤さんは、小学校4年生のときに柏のアカデミーに加入。ジュニアユースとユースをへて、いま現在は浦和レッズでプレーする日本代表DF酒井宏樹(32)らとともに、2009シーズンからトップチームに昇格。プロのキャリアをスタートさせた。
 柏が史上初となるJ2から昇格して即、J1優勝を果たした2011シーズンに7ゴール。翌2012シーズンには13ゴールと活躍を続けていた工藤さんは2013シーズンを前にして、それまでの背番号「19番」を「9番」に変更したいと直訴。覚悟と決意、そして熱意でフロントを説き伏せた。
 柏の「9」はエースストライカーとして活躍した北嶋秀朗さん(44、現大宮アルディージャヘッドコーチ)が長く象徴としてきた背番号だった。しかし、北嶋さんは出場機会を求めて2012年6月にJ2のロアッソ熊本へ期限付き移籍し、シーズン後に完全移籍へ切り替えた。
 空き番となったばかりの「9番」を、工藤さんはなぜ背負いたいと柏へ直訴したのか。当時の工藤さんに胸中を尋ねると、決まって同じニュアンスの言葉が返ってきた。
「僕しかいない、絶対に僕が背負うんだという強い気持ちでいたので」
 柏ひと筋で育ってきた工藤さんは、気がついたときには北嶋さんの大きくて、まぶしい背中を追いかけるようになった。ストライカーとしてだけではない。トップチームに昇格してから、同じ時間を共有するようになったレジェンドへ抱く憧憬の思いが、よりいっそう強くなった。
 ピッチの内外で抱いてきた北嶋さんへの思いを、工藤さんから聞いたことがある。
「プレーそのものもそうですけれども、キタジ(北嶋)さんからはメンタル的な強さをすごく学びました。どのようにしてチームに貢献していけばいいのか。スタメンであろうがベンチスタートであろうが、どんな状況でも常に前向きにとらえていく姿勢を特に学びました。一緒にご飯を食べたりしながら、本当にいろいろなことを語り合ってきました」

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