不思議な人生ドラマ…阪神戦で22年連続勝利の日本タイ記録を達成したヤクルト43歳の石川雅規は“長嶋巨人”への入団が内定していた
巨人は自由枠での入団を学校、本人と約束していたが、当時は、長嶋監督が、全権を握っており、いわゆる“直感”で夏の甲子園で歴代最速となる154キロをマークしていた宮崎・日南学園の寺原隼人氏の指名に方向転換された。片岡スカウトが、もうあきらめていた石川獲得の目が復活したのだ。ちなみに寺原は、巨人、中日、横浜、ダイエー(現ソフトバンク)の4球団が競合して当時ダイエー監督の王貞治が引き当てている。
2001年にヤクルトは、若松勉監督のもと優勝していたが、エースの石井一久(現楽天監督)が、メジャー挑戦で退団することが確実となっていてチームは即戦力左腕の獲得が急務だった。
片岡スカウトは秋田商時代から石川に目をつけていた。名スカウトには「小柄でセンスのある左腕はプロで成功できる」との持論があった。
「石川の球離れの良さは、ネット裏までパチンと音が聞こえてくるほどだった。それとストライクを取るのに苦労しない。ボールの扱いに抜群のセンスがあった。練習を何度か見にいったが、キャッチボールから1球、1球、手を抜かない。こういう姿勢の選手は絶対に成功する。シドニー五輪の予選で石川のボールを受けたことがある古田にも話を聞いたが、“キャッチャーとしてリードしてみたいピッチャーだ”と言っていた。肘も問題ないという情報も得ていたからな」
シドニー五輪に出場した当時の侍ジャパンは、プロアマ合同チームで石川は、アマ側からメンバーに選ばれていた。古田氏は、本戦では代表から漏れたが、その予選には出場しており、石川は、古田氏とコンビを組んで大きな刺激を受けていた。最終的には、その古田氏の存在が決め手となり、石川はヤクルト入団を決意した。
石川は、1年目に12勝で新人王。そこから184勝を積み重ね、片岡スカウトが約束した「10年間のエース」どころか、22年間も現役の第一線でプレーする大投手に成長した。もし巨人に入団していたら石川は、どうなっていたのだろう。大目標としている200勝まで、あと16勝。尊敬する山本昌氏がプレーした50歳まではあと7年ある。
「長くやらせていただいてますけども、やはりチームの戦力になってチームの勝利に貢献したい思いが強い。グラウンドに出ると年齢関係ないので何とか結果で引っ張っていけるように頑張っていきたいと思います。何年やりたいという気持ちでやったわけではなく、目の前の試合を必死にやってきた結果が22年目なので、また今日の勝利におごることなく次の勝利に向かってしっかりと準備したいと思います」
そう言って帽子を取ってインタビューを終えた石川は、ベンチ前でファンに声をかけられると、もう一度、帽子を取って手をふった。
(文責・RONSPO編集部)