なぜ38年ぶり日本一に輝いた阪神の岡田監督は「強かった」とオリックスに敬意を示したのか…11年前の紙切れ1枚の解任通告に「恨みなんかない」
「なんかなあ、これも運命かな。野球はな、こういうことって絶対にあるからな」
お気に入りの赤坂の串揚げ屋で様々な具材を22本もたいらげた夜だった。
18年ぶりの“アレ”を達成し、オリックスとの59年ぶりの関西シリーズが話題になり始めた10月某日…岡田監督は、古巣との日本一戦に思いを巡らせた。
11年前の9月25日の京セラドームの監督室。
あの日、オリックスの監督だった岡田監督は、当時の村山球団本部長から一枚のプリントを机の上に差し出された。メディア配布用のリリースだった。そこには「岡田監督、高代ヘッドは今日限りで休養します」と書いてあった。
その日は、千葉から移動日無しのゲームだった。岡田監督は、一度、自宅に帰り、ポロシャツ姿で球場入りして、ユニホームに着替えようとしている最中だった。
何の説明もない。
「こういうことになりました」
それだけだった。
3日前に千葉で今季限りで契約を更新しないことを告げられていた。故障者が続出して開幕ダッシュに失敗した岡田監督の3年目は最下位に沈んでいた。
「あと10試合ですが、頑張りましょう」
そう村山本部長に言われていた。
その夜、海浜幕張駅近くの居酒屋で相棒の高代延博ヘッドコーチ(現・大経大監督)と浴びるほど酒を飲んだ岡田監督も「最後までやれることをやろうや」と誓っていた。
それがわずか3日で球団は方向転換した。人伝てに聞けば、ロッテに3連敗したため、「もう今すぐ辞めさせろ」と、宮内オーナーが号令を下していたという。
オリックス監督就任の橋渡し役だった理解者の元球団代表の井箟氏が球団の顧問を離れていたことも岡田監督には悲劇だった。宮内オーナーとのクッション役がいなかった。
「ほんま、どないなってんねん」
やりきれぬ思いもあった。
だが、一方で岡田監督は、当時のオリックスが、宮内オーナーの号令ひとつで、すべてが動く組織であることを知っていた。サラリーマンの中間管理職が、それを伝えにきただけだ。
ミーティングルームで全選手を集めて岡田監督は「すべての責任は私にある。君たちのこれからの頑張りに期待している」と、悔しさを押し殺し、大人の挨拶をした。
4番を打っていたイ・デホと途中移籍していた井川が監督室のドアを叩いた。
イ・デホは「監督すみません。僕のせいです。またどこかで監督をされることになれば、一緒にプレーをさせてください」と涙ぐんだ。
岡田監督は、退任の言葉をネクタイも締めずにポロシャツ姿での囲み会見になったことだけを悔やんだ。試合前に球場を去り、同じく紙一枚でクビになった高代ヘッドと、大阪キタ新地の行きつけのお好み焼き屋でアルコールを胃に流し込んだ。
「しゃあないやん。契約社会やからな」
その日の試合は、すべてが準備されていたかのように森脇浩司氏が代行監督を務めていた。試合結果は最後まで知らなかった。