川崎を天皇杯王者にした10人壮絶PK戦の舞台裏
ソンリョンのデータはインプットされていなかったのか。ゴールの右隅、一番上のコースを射抜いた弾道に松本は金縛りにあったように動けなかった。しかも、インサイドキックにはソンリョンの駆け引きも込められていた。
「僕が最初に、こちらから見て右へ蹴って成功させたじゃないですか。同じキーパーならば心理的にも、同じ方向には蹴らないかな、というイメージがあった。もちろん自分と同じインサイドキックでも蹴ってこないだろう、と考えたなかで、さらに一度左へフェイントを入れて、タイミングを合わせてから右へ飛びました」
柏の10人目、松本が蹴る刹那に、ソンリョンは自分から見て左側へ、ほんの少しだけ体の重心を動かした。実はこれも罠。自分が蹴ったコースとは逆を狙いたくなる心理を見透かし、フェイントを介して実際に想定したコースへ誘い、松本が右足のインステップで放った強烈な一撃を完璧なセーブで弾き返してみせた。
この瞬間、死闘は終焉を迎えた。
前日練習でPKを止められた控えキーパー、上福元直人(34)と真っ先に抱き合い、至福の喜びを分かち合ったソンリョンが言う。
「(柏の)6人目のキッカーがクロスバーに当てたときに『希望がある』と思って、とにかく最後の最後まで最善を尽くしました」
開幕前の第3キーパー的な立場をリーグ戦で鮮やかに逆転させ、最終節まで残留争いを強いられた柏のゴールマウスを守った松本は涙をぬぐって前を向いた。
「ショックはありますけど、下向いている暇もないので。というか、もう下を向くだけ向いたので、ここからはしっかり前を向いて日々努力していきたい」
運命に導かれるように実現した、歴史に残るPK戦のキーパー対決。来日8年目で、韓国代表歴も長いソンリョンの経験が、最後の最後に勝者と敗者を分け隔てた。それでも、天皇杯歴代最多の6万2837人の大観衆で埋まった国立競技場には表彰式が近づいても、死闘を称える拍手と「マツモトコール」が鳴りやまなかった。
(文責・藤江直人/スポーツライター)