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今季限りで引退した“熱男”こと松田宣浩氏が40歳までプレーできた理由
今季限りで引退した“熱男”こと松田宣浩氏が40歳までプレーできた理由

王貞治氏が秋山幸二氏に命じた「彼をプロで通用する打ち方に直してくれ!」…引退した“熱男”松田宣浩氏が40歳までプレーできた人生の転機

 今季限りで現役を引退した元ソフトバンク、巨人の松田宣浩氏(40)の独占インタビュー。第2回では「なぜ40歳までプレーできたか?」をテーマに18年の現役生活を回顧してもらった。

 1年目キャンプで左腕の三瀬氏の球が前に飛ばず「なんやこのレベルは…」

 

「熱男」と呼ばれた人は、スマホに保存されている18年前の写真を示した。
「これ入団の頃の写真です。別人みたいに細いでしょう。まずユニホームの着こなしから全然違いますね」
 40歳で引退した。
 ステレオタイプにはめこむわけではないが、肉体がボロボロとなり、故障や体力の限界が引退の理由になる選手が少なくない。
 だが、松田氏は、18年の現役生活の間に骨折はしたが、選手生命を脅かされるような大怪我に見舞われたこともなく、「どこも痛くないし、どこも悪くない(笑)。最高でした。現役のまま終われました」と笑う。
 なぜ40歳までプレーできたのか。
「まずは小、中、高、大とアマ時代に強く鍛えてくれたことに感謝です。若い頃から数字にこだわらずに人一倍練習した積み重ねが大きかった。下手くそだったから、たくさんノックの球を受けた。打てなかったからたくさん打った」
 18年間、生活に制限をつけることもなかった。
「飲み食いは自由にやった。遠征先では。連日、焼肉です。飯を食え、走れ、バットを振れ。昭和の野球ですね。今の野球はすべてがスマートになり過ぎていると感じる。否定はしないが、僕は昭和の野球がいいと思っているし、そのおかげで40歳までプレーできたと思う」
 
 中京大―亜細亜大を経て2005年にソフトバンクに希望枠で入団した。三菱重工名古屋からドラフト5位で入団した同期の本多雄一氏(来季から一軍内野守備走塁兼作戦コーチ)と共に宮崎の1軍キャンプに抜擢された。
 フリー打撃で松田氏は本多氏と共に、前年に18セーブ、11ホールドの数字を残していた左腕ストッパー三瀬幸司氏が投げる打席に立たされた。5球づつ交代で対峙したが、1球も前に飛ばなかった。ロッカーに帰り、本多氏と「なんや。あのレベルの球わ」と衝撃を受けたという。
「ホップするストレート。めちゃくちゃ曲がるスライダー。プロとアマとのレベルの違いをまざまざと見せつけられて、これでやっていけるのかなと思った」
 オープン戦が始まると三塁の守備でも驚きがあった。
「普通のサードゴロでもバッターランナーの足がどの選手も物凄く早い。それが目に入り『あっ』と思ったら、もうギリギリのタイミングなんです。ひとつでもミスをしたら内野安打、エラーにもなる。守備もこのままじゃやばいと思った」
 それでも場数をこなすと徐々に慣れてきて開幕1軍をゲット。王貞治監督に3月25日のロッテとの開幕戦で「7番・三塁」でスタメン起用された。4月、5月と我慢して使ってもらえたが、結果を残せず、6月15日にファーム落ちし、このシーズンに二度と1軍に戻ることはなかった。だが、このファームでの生活が、松田氏の野球人生の転機となった。
「王貞治会長(当時監督)が秋山幸二さん(当時2軍監督)に言ったんです。『松田のバッティングを一からプロの世界で通用する打ち方に直してくれ』と。それが最初の転機でした」

 

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