殿堂入りした広島カープの“レジェンド”黒田博樹氏はドジャースの後輩となる大谷翔平に何を期待しているのか?
日本の野球殿堂入りの発表、通知式が18日、野球殿堂博物館で行われ、プレーヤー表彰では、広島、ヤンキース、ドジャースで、日米通算203勝をマークした黒田博樹氏(48)と通算3021試合出場のNPB最多記録を持つ元中日、横浜の谷繁元信氏(53)の2人が珍しい同票で選ばれた。監督、コーチ引退後6か月以上、もしくは引退後21年以降の選手が候補者となるエキスパート表彰では、有力候補だった阪神OBの掛布雅之氏(68)が当選ラインにわずか2票足りずに落選、2年ぶりに該当者なしとなった。また特別表彰はアマプロの両方で審判を長く務めた故・谷村友一氏(2022年94歳で没)が選ばれた。殿堂入り表彰者は218人となっている。
「最後まで投げ抜く」山本浩二氏に叩き込まれたエースの責任と精神
日米通算203勝のカープの“レジェンド”に朗報が届いた。
黒田は候補者にノミネートされて3回目での殿堂入り。
「今までの野球人生を振り返っても本当に自分が選ばれていいのかなというのが一番の感想です。自分の中でも20年間があっという間に過ぎ去った。1試合、1試合、1年、1年、必死に投げてきた積み重ね。あっという間にここまできた感じですね」
黒田氏は1996年に上宮高から専修大を得てドラフト2位で広島に入団。1年目からローテ―に抜擢されるが、負けが先行、2年目はわずか1勝に終わるなど、なかなか2桁に乗せることができなかった。転機となったのは、2001年に監督として再登板した山本浩二氏との出会いだった。
「数年間は、なかなか結果を残すことができなかったんですが、大きな転機になったのが、山本浩二さんが2回目の監督に就任されたこと。先発、エースの心構え、責任、たくさんのことを学ばせてもらった。そのシーズンで自身初の2桁勝利をあげた、その教えをもって、22年間、最後のマウンドまで原動力となりました」
黒田は2001年に12勝8敗。2003年から5年連続の開幕投手を務めた。
その山本氏がゲストスピーチとして通知式に登場した。
「当時から分業制があったが、先発すると完投のことしか頭にない。先発するとリリーフはいらない、とかたくなに独りで投げ抜いた。ガッツ、根性がある。寡黙だが努力の人。一度だけ最多勝を、あと1勝、リリーフで勝ち取った。おそらく悔しかったと思う。でもタイトルを取るのは大変、そののちにプラスになるというのが私の考えだった」
2005年に15勝12敗で最多勝を獲得したが、最後の1勝は、途中登板で手にしたもの。岡田彰布監督のもとリーグ優勝した阪神の下柳剛とタイトルを分けた。 2006年には防御率1.85で最優秀防御率タイトルを獲得している。また2001年(13試合)、2002年(8試合)、2004年(7試合)、2005年(11試合)と山本政権下で4度、リーグトップの完投数をマークし“ミスター完投”とも呼ばれたが、黒田氏は、山本氏とは真逆の話をした。
「なかなか替えてもらえない。一度マウンドにあがると、少々のことでは、チーム事情もあったが、なかなかマウンドを下りることを許してもらえなかった。当時は苦しかったが、今考えると、ああいう経験が40歳まで一線で投げ続けられた要因かなと思います。はじめは、そこまで(完投への)こだわりはなかったんです。山本浩二さんとの出会いでエースとして最後まで投げ抜く、そういう精神を叩き込んでもらえました」
2008年には海外FAでメジャーに挑戦した。ドジャースに3年3530万ドル(約52億円)の契約で入団すると、2年目に開幕投手に選ばれ、頭部に打球を受ける選手生命を危ぶまれるアクシデントを乗り越えて、4年間で41勝を記録した。
ここでも転機があった。2008年に8月から“精密機械”と呼ばれたグレッグ・マダックスがトレードで復帰。山本浩二氏が「バックドア、フロントドアですか。見たことのないボールだった」と驚いたツーシームを学んだのだ。
「色んなことを吸収していかないとアメリカという世界で生きていけないと思ったんです。マダックスからは、ツーシームだけではなく、バッターへのアプローチの仕方とか、たくさんを学んだ。33歳で(メジャーに)入ったので時間がなかった。吸収できるものをすべて吸収しようと。その貪欲さがプラスになったと思う」
2012年にヤンキースに移籍してからもツーシームは黒田の武器となった。