野球界の「ムッシュ」吉田義男さんとサッカー界の川淵三郎さんの知られざる“絆”がトルシエ監督誕生の裏にあった
日本サッカー協会(JFA)は4日、プロ野球の阪神OBで元監督の吉田義男さん(享年91)が3日に逝去した訃報を受けて、生前に親交のあった川淵三郎相談役(88)の追悼文を発表した。野球のフランス代表監督を6年間務めた吉田さんが、その豊富な人脈を生かしてJFAにフランスサッカー連盟(FFF)の幹部を紹介したことから、同国出身のフィリップ・トルシエ監督(69)の招聘と、2002年のW杯日韓共催大会での快進撃につながったという、川淵相談役は「私はもとより日本サッカー界も大変お世話になりました」と悼んだ。
2002年の日韓W杯成功にもつながる
阪神界のレジェンドの吉田さんとサッカー界の重鎮である川淵さんの間に知られざる絆があった。脳梗塞のために兵庫・西宮市内の病院で逝去した阪神OBで元監督の吉田さんへ、JFAは川淵相談役による追悼文を発表。そのなかで「フランスで野球の代表チームの強化に携わられ、野球の発展に尽力された吉田さんですが、私はもとより日本サッカー界も大変お世話になりました」と1990年代の秘話が明かされた。
「吉田さんと初めてお会いしたのはFIFAワールドカップフランス’98の数年前、早稲田大学蹴球部の先輩と日本サッカー協会とつながりのあるパリの旅行代理店の社長を通じて知り合い、そのご縁でフランスサッカー連盟(FFF)の幹部を紹介していただきました。今ほど力がなかった当時のサッカー日本代表にとって、世界トップクラスのチームと対戦することはほぼ不可能でしたが、吉田さんにその足がかりをつくっていただき、フランス代表とも何度か試合を組むことができました」
吉田さんと川淵氏の個人的な縁を介して、自国開催のW杯を控えていたFFFとJFAの接点ができたのは1990年代前半だった。
日本代表は1994年5月、旧国立競技場でフランス代表との初対戦となる国際親善試合に臨んで1-4の完敗を喫した。W杯アメリカ大会出場を逃した、1993年10月の「ドーハの悲劇」から約7カ月。現役時代はブラジル代表で活躍した、パウロ・ロベルト・ファルカン監督(71)のもとで臨んだ最初のシリーズだった。
アルゼンチン代表をはじめとする南米勢が来日したケースはあった一方で、ヨーロッパの強豪国が国際親善試合のためにわざわざ来日するのは極めて稀だった。実現した背景には、当時JFA強化委員長とJリーグ初代チェアマンを兼任していた川淵相談役が追悼文で記した、FFFとの橋渡し役を担った吉田さんの存在があった。
川淵相談役は吉田さんへの感謝の思いを込めながら、さらにこう綴っている。
「FFFとのつがなりができ、ヨーロッパに拠点ができたことは、吉田さんのお力添えがあったからにほかなりません」
それまでのJFAは、1960年代に日本代表の監督代行や顧問を務め、その後の日本サッカー界の発展に尽力した恩人、ドイツ出身のデットマール・クラマーさん(故人)を通じて個人的な関係は築けていた。それだけにFFFと組織同士でつながりがもてた恩恵は、代表チーム同士による国際親善試合の開催だけにとどまらない。
その象徴がフランス出身のトルシエ監督の招聘となる。
すでに開催が決まっていた2002年のW杯日韓共催大会へ向けて、JFAは日本が悲願の初出場を果たした1998年のW杯フランス大会後に辞任した岡田武史監督(68)の後任として、Jリーグの名古屋グランパスエイトの監督を務めた経験をもつ、フランス出身のアーセン・ベンゲル氏(75)に候補を一本化した。