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トルシエ監督誕生の裏に「ムッシュ」吉田義男さんと川淵三郎さんの知られざる絆があった(写真・日刊スポーツ/アフロ)
トルシエ監督誕生の裏に「ムッシュ」吉田義男さんと川淵三郎さんの知られざる絆があった(写真・日刊スポーツ/アフロ)

野球界の「ムッシュ」吉田義男さんとサッカー界の川淵三郎さんの知られざる“絆”がトルシエ監督誕生の裏にあった

 しかし、すでに英プレミアリーグのアーセナルで監督を務めていたベンゲル氏は、日本代表監督就任へのオファーに断りを入れる。次の手段としてJFAが取ったのが、交流のあったFFFとの直接交渉であり、紹介されたのがフランス大会後に南アフリカ代表監督を退任し、ちょうどスケジュールが空いていたトルシエ氏だった。
 当時のJFAの岡野俊一郎会長(故人)はベンゲル氏をあきらめきれず、直筆の手紙まで送った。それでも断りを入れたベンゲル氏からもFFFに続いて推薦された経緯もあり、フランス大会から約3カ月後の1998年9月にトルシエジャパンが誕生した。
 エキセントリックな性格もあり、JFA幹部と衝突を繰り返したトルシエ監督は、最終的には日韓共催大会のロシア代表戦における日本のW杯初勝利と、同じく初めてとなるグループリーグを突破してのベスト16進出を日本サッカー界の歴史に刻んだ。紆余曲折のあった軌跡のターニングポイントもまた、フランス代表との対戦だった。
 最初は契約延長か、退任かの二者択一にあった2000年6月。招待参加したハッサン二世国王カップで、ベストメンバーのフランスと2-2の末にPK戦で敗れる大熱戦が高く評価され、トルシエ監督との契約は日韓共催大会まで延長された。
 さらに2001年3月には今度はアウェイで国際親善試合が組まれ、冷たい雨が降るスタッド・ド・フランスで0-5と惨敗。中田英寿以外はほとんど戦えなかった90分間は、アジア最終予選を免除されてW杯に臨む開催国の日本の大きな教訓となり、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ翌年の本大会への序曲となった。
 FFFとJFAは、川淵氏が会長を務めていた2005年9月にパートナーシップ協定を締結。両組織の関係の強化や、両国のサッカーを発展および成功させるため、積極的に相互協力を図っていく協定は2014年に更新されいま現在に至っている。
いまではスペイン、ドイツ、イングランド、ベルギーなどともパートナーシップ協定を結ぶJFAが、ヨーロッパの協会および連盟と契約するのはFFFが初めてだった。両者を結びつけた吉田さんとの思い出とともに、川淵相談役は追悼文を締めている。
「以来、吉田さんと親しくさせていただきましたが、渡仏した際、わざわざシャルル・ド・ゴール空港に車で迎えに来ていただいたときは本当に恐縮しました。忘れがたい思い出です。生前中のご厚情に深く感謝申し上げるとともに、故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます」
 2度目の阪神監督退任後に渡仏した吉田さんは、1990年から1995年までフランス代表監督を務めるなど、同国における野球の発展に尽力した。訃報を受けてフランス野球・ソフトボール連盟も4日に「常に変わらぬ献身で、フランス野球の発展に足跡を残した」と追悼の意を表明している。
「フランス野球界はレジェンドを失ったが、彼の精神と影響力はわれわれの心とスポーツの歴史に永久に残るだろう」
 吉田さんが国境を越えて示した野球への情熱は、フランスにおける男性への敬称となる「ムッシュ」と呼ばれるきっかけになった。吉田さんは天国へ旅立たれたが、レジェンドが作った架け橋は、競技の垣根をも越えて、今後も日本サッカー界の未来をも明るく照らしていくだろう。

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